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そして、大変僭越ながら、当ブログは特定秘密保護法案に断固として対します。だって、真っ先にこういうブログがかれそうだから。
そして、2013年末に亡くなられた大瀧詠一さんに心からの悼の意を表します。どうか安らかに。夢は消え、歌は残る。
なお、このブログは定期更新で、且つ、ある程度まとめて原稿を書いて、小出しに更新する、というスタイルでおりますので、多少最新情報から外れることもありますが、その点は気長にお付き合いください。
ですが、何かと不便なのでまとまりのはじめの記事に「直線ち」というラベルを付けるようにしましたので、そこからお読み頂けると、スムーズに楽しめるのでは無いかと思っております。

2017年3月2日

妖言惑衆

んな宗教の本を読んでいて、私が読むような本だから本格的ではなくせいぜいちくま学術文庫が関の山、後は新書クラスの分かりやすいものばかり。そういうものばかり読んだせいか、ある日あることに気がついた。仏教は、時代によって色んな世代に分かれる事を学ぶと、その折々に必ず開祖や中興の祖、と呼ばれる宗教家に出会う。密教では空海さん、浄土宗では親鸞さん、そもそも、仏教と言えば仏陀、みたいにね。
真言密教が革新的だったのは、それまでの仏教は修行した者だけが救われる、という小乗仏教から、そんなみみっちいはずはなく宗教が衆生を救う、という大乗仏教に移行したこと。そして密教は、その為の呪術や加持祈祷などで、困難を切り開いてみせた。最終的に、仏教はシンプルさを求め、ひたすら無に近づくための禅や、お題目さえ唱えていれば救われると解いた浄土真宗にまで至る。
いずれにしろ、庶民とのインターフェースとして仏教の布教家、あえていうと教祖、そういう人に出会う。そう、突き詰めると人間に出会うのだ。宗教が説くのは生き方であり、修行はその為の戒めである。修行をし、教義に則った真っ当な生き方を死ぬまで続けたら、ご褒美として極楽浄土が待っている。そこへ導くのが、いわゆる教祖、開祖、なのだと気がついた。これは自分でも結構エポックメイキングな出来事だった。

つまり、宗教は辿っていけば、いつか人に出会うのだ。その人が言うことを信じそれこそが宗教なのだ、と私は悟ったワケね()。それはもっとありきたりな構図で云えば、先生と生徒の関係であり、教える正しい道というのはつまりは道徳のようなものだな、と。先生のいうことを聞いてルールを守って正しく生きれば、飴玉をくれる、というのと同じように、仏教が語るにはそこに極楽浄土が待っている。これが究極のご褒美で、そこに辿り着くための近道を説くのが仏教なのだと理解した今日この頃。好感は抱いたけど(笑)

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