ご注意

このサイトはアダルト・サイトです。詳しくはわかりませんが、ご覧の国の律に従って閲覧してください。とりあえず、子供は十年いよ、一昨日来やがれ(笑)。
そして、大変僭越ながら、当ブログは特定秘密保護法案に断固として対します。だって、真っ先にこういうブログがかれそうだから。
そして、2013年末に亡くなられた大瀧詠一さんに心からの悼の意を表します。どうか安らかに。夢は消え、歌は残る。
なお、このブログは定期更新で、且つ、ある程度まとめて原稿を書いて、小出しに更新する、というスタイルでおりますので、多少最新情報から外れることもありますが、その点は気長にお付き合いください。
ですが、何かと不便なのでまとまりのはじめの記事に「直線ち」というラベルを付けるようにしましたので、そこからお読み頂けると、スムーズに楽しめるのでは無いかと思っております。
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2017年7月3日

シリーズ 騎乗位を考える(13) リベンジポルノを喜んでいるのは誰だ?

性が最も淫らに乱れている姿を収めるには、ではどうするか。手が伸ばせない以上、そちらにカメラを置いておくしか方法はありません。ただ、画像を撮るデジカメの場合、シャッターを遠隔操作しなくてはいけなく、それは安物のコンデジではまず不可能です。タイマーとかを駆使して、といってもまぁ、想像してみれば分かるでしょう。タイマーセットして、ベッドに戻って彼女を上に乗せている、なんて間に合いませんし、興奮も途切れてしまうってモノです。
そうなると、動画の方にアドバンテージがありますが、モニタリングをきちんとしておかないと、やたらと画面の端の方で写っているだけで、無駄な空間がぽっかり空いている、またそこにピントが合っちゃって大事なところがピンボケとか。何より、セックスしている最中に、テレビ画面の方ばかり気にしているのもなんだか、没頭とはかけ離れているようで、相当な鍛錬が必要でしょう。この辺、ハメ撮りの難しいところです。
結局、最もスムーズな方法は、他人に撮ってもらう、ということです。あるいは他人とセックスしてもらって、自分は撮影者に徹する。このどちらかです。何れも本末転倒、というべき問題を孕んでいますが、逆に、そこまで行ったら大したものです。このリベンジポルノの喧しい時代にあっても、撮り撮られの関係が継続していること自体、これほどの信頼関係の構築は神がかっています。その愛の強さこそ、賞賛に与えるべきです。

つまり、背面騎乗位というのは、最も女性が没頭にするに容易な体位ですが、それが晒されているのは実は、相手の男性ではなく、言ってみれば見えざる観客に向けてである、ということになるのです。そこに撮影が絡んでいるかどうかは関係なく、その時女性は、紛うことなき淫靡な女優である、ということです。私はそのことを、最も賞賛したいと思いますし、だからこそ、表現者としての本能のようなモノを女性は誰もが持ち合わせていることに驚愕する今日この頃。その種は小泉純一郎が蒔いた

2017年7月2日

シリーズ 騎乗位を考える(12) リベンジポルノのための背面騎乗位

面騎乗位は、こと男女の仲の中では微妙な位置を占めていることになりますが、ちゃんとした利点もあります。それは視点を変えて、そのままの状態で、視点を反対側に向けてください。そこがラブホテルで、全面鏡張りのような場所なら、少し顔を上げて彼女の姿を鏡越しに見てみてください。そうです、そこには彼女しか写っていない。つまり、セックスの最中の女性のみがそこに存在している、という状態なのです。
前にここでも言いましたが、下半身さえあれば善いと歌ったのはクラウザー閣下ですが、それは女性ではなく、男性のことをいっている気がします。昔の裏ビデオを見ていると、不必要に男の顔が邪魔をしたり、男の尻の方が大きく写っていたり、とかく男の存在が邪魔な時があります。人ぞれぞれではあると思いますが、そこに自分の顔があっても時には邪魔になるときだってあるものです。その懸念を払拭できるのが、まさに背面騎乗位の状態です。
その効果を確認するには、鏡に映った姿を見るか、最も良いのは男の足の方からカメラを向けてみることです。後で再生する画像でも映像でも一緒ですが、そこに写っているのは女性のみです。しかも股間にはズッポリオチンチンをくわえ込んでいる。最も淫らで扇情的な姿と思われるものが、そこに女性単体で写っているのです。

さてそこで少し話が逸れますが、好みもあるでしょうが、そういうエロい状態を映像か動画に残そうとしても、簡単にはいきません。倫理的なことはさておき、技術面で困難が伴います。わかりきったことですが、どこぞのゴム人間でもない限り、カメラを自分で構えていて、背面騎乗位の女性の正面を写すことは不可能です。あなたの手にカメラがある限り、アナタが写せるのは、彼女の尻や背中だけです。まぁ、それも悪くは無いですが、さっき云った最もエロい彼女の姿は写せないのです。余談ですが、それを気にしたわけではないですが、ある女性は、私が背中からカメラを構えたとき、アヌスに指を挿れて掻き回す、という扇情的なポーズを取ってくれて、それはそれでなかなか興奮する画像が残っている今日この頃。地溝帯の罠

2017年7月1日

シリーズ 騎乗位を考える(11) 生き物バイブレーター

ることに関して、対面はアドバンテージがありますし、距離という面では最も近い。女性の感じ入る部分に最短距離で肉薄できるわけです。一方の背面は、視覚の面では幾らか劣りますし、見えない部分を晒すわけですから、繰り返しになりますが、お尻の吹き出物や、背中の産毛、蚊に噛まれた後、まぁ稀ですが、刺青とか。とにかく自分では目の届かないところを最愛の人に見られるわけです。
不思議なモノで、男性の場合、セックスの体位で背中を見られる、ということはまずない。まぁ、曾てのヘリコプターとか、ああいう特殊な体位も無いわけではないので、全くないとは言い切れないですが、一般的なセックスだと、それは機能的に背中を見せないことになります。機能的というのは、それはもうオチンチンが前に着いていて、前にしか向かない、ということです。
話を戻すと、背面は女性にとって最も無防備な姿かも知れません。ただ、羞恥を捨てれば、逆に男の顔が見えないことで、自分に没頭できる、という利点も浮かび上がってきます。セックスは男女のコミュニケーション、というのが基本ですが、背面はまさにそれに反するわけです。しかし、繋がっていることに集中できることもまた、利点であるといえば利点。この辺のバランスはひじょうに難しいところです。

そこでこの間の話です。いいよ、と言って上に乗っかって、女性後ろを向かれたとき、まぁそれが最も彼女の好きな体位だったとしても、男性は一抹の不安を頭の片隅に置くべきです。極端な言い方をすれば、その時アナタは生身のディルド、と化しているのかも知れません。女性は目を閉じ、本当に好きな男の顔を思い浮かべているかも知れません。まぁ、それは対面だからといって解消されるわけではないのですが、少なくとも、背面は女性が最も我が儘に振る舞える状態であるかも知れない今日この頃。予想してたけど

2017年3月11日

セックスは男と女の晴れ舞台

論として、まだまだ言い足りないこともあるけれど、私の宗教観の根本は、神様の世界はシステム、宗教はスタイル、という位置づけ。システムを悪用すると、曾ての大戦のような悲劇を生む。スタイルを見誤ると、独断が先走って軋轢を生む。少なくとも日本に伝来した仏教は、神様の世界と上手く折り合いを付け、それを今の社会そのものに転化してきた、いわば幸せな宗教を持つクニに作り上げてきたはずで、そこは世界に誇って好いはず。
どちらかというと神様の世界にシンパシーを感じる、というのは、結果、神様は結構情欲に素直である、と謂う部分も大きい。宗教はなぜかどこも、セックスには厳しい。ましてや倫理観としてアダルトの世界を毛嫌いしている。そんなはずはないんだけどなぁ、と私などは思う。ただ、女性は毎月血を流すので不浄のモノ、という考え方は、宗教になると顕著になる。特に日本の宗教には、その傾向が強いのはなぜだろう?
おそらくそれは葬式の成り立ちと関係があると睨んでいる。現代は葬式と宗教は、密接に関わっているけれど、そもそも埋葬は死による病原菌の蔓延やそういうリスクヘッジのための知恵だったはず。それが宗教と結びついたのも、神様へのご機嫌取りという意味で理解できる。そういう時に、やはり血の赤は忌避すべきモノだったのだろうか?

いずれにしろ、女性への差別はそこら辺から脈々と受け継がれている。もう忘れているだろうけれど、この話の一番最初に、LGBTの話をしたけれど、性の解放というモノとも密接な関わりがある。しかし、今の女性の政治家には期待できない。だって彼女たちは皆、ただ男になりたいだけだから。男性的ではない、女性らしい何かで社会を変えようという姿は見えない。特に民進党の党首さん、アナタが男になってどうするの?やっぱり、その辺もね、アダルト業界が文化として独り立ちする未来に希望があるような気がする今日この頃。その前に腹を切らされたみたい

2017年3月10日

神様の統一理論

の理を神様という形で擬人化して現したのは、人類の知恵だと思う。その時、全く何か違う存在として突き放さず、自分と同じ姿形をした人に当てはめたことが、その後の信仰も含めて、ひじょうに意味がある気がする。お遍路の締めとして、高野山に行った後、中部地方から関東辺りまでのんびりとクルマで旅をしたのだけど、その時思ったのが、日本には、どんなところにも神様が居る、ということだ。
それこそ、その辺の石ころでも、老木でも何でも、神様として祀っている。それぞれに謂われがあり、人間と関わっていたのだろうと思うけれど、それは全て、人にとって良いことばかりではなかったはず。多くが災害であり、困難の象徴であったはずだ。つまり古の日本人の感覚では、神様は良いこともするが、悪いこともする。時々機嫌も悪くするから、お供えとかお祓いとか祝詞とか神楽とか、機嫌を取らなくてはいけない。機嫌を損ねると大変な災いが襲ってくる。
そういう風に、ひじょうに神様は人間的なのだ。全く逆説的な言い方だが、全知全能の神は存在しない。まさしく物理学や、天文学の理論の数だけ、様々な顔を持った神様が居て、その多くが人間の意のままにはならない。だから、上手く付き合っていかなくてはいけないのだ。説き伏せるでもなく、もちろん盲目的に付き従うのでもなく、仲良くやっていくのだ。そこが帰依する宗教とは違う感覚。

改めていうが、神道という宗教はまた別の話。あくまでも民間信仰、民族的な神話の意味での神様。それは更に時代が下ると、日本人が寄って立つ時の流れ、歴史、のようなモノまで神様に当てはめて、それは現代まで脈々と受け継がれている。まさしく、システムそのものに違いない。私がある種盲目的に天皇制を固持したがるのは、そのシステムの権限である、という考え方が大きな要因を占めている。システムはなかなか変えられないでしょ、と思う今日この頃。探求は何時までも続く

2017年3月9日

3031回のギターの夢

には見えないが科学理論がこの世を動かしているのと同様、それを擬人化した神様の世界も、この世に遍く存在している。そう考えてもおかしくないはずで、つまりは、神様の世界はこの世のシステムと同義、と私は考えている。もちろん、今はそれの多くを科学に置き換えた方がわかりやすく、そこにまで神様を定義づけすることはしない。でも、例えば地鎮の神様、産土神、なんていうのは、全く科学的ではないけれど、なんとなく未だに信じられたりする。
曾てお大師さんが高野山に根本道場を開いた時、八咫烏に連れられて導かれ、その八咫烏こそ地鎮の神様だった、という伝承が残っている。だから寺を建てる前に、断りを入れるために神様を祀った、と謂われている。現代は、神仏習合以後なのであまり正確ではないけれど、だいたい寺院の敷地の片隅には、神様の社がある。それは、仏教を修行する地を下支えする存在として、その土地の守り神を祀ると謂う風習からだ。
そうするとますます、神様の世界がこの世の理、いわゆるシステム、であるような気がしてならない。目に見えることも、見えないことも、科学で説明できることも、出来ないことも、全てひっくるめたシステムを、古の日本人は、神様としてそれぞれの役割を与えたような気がする。変な言い方だけど、だから信じられるのは神様、という認識が私の中にある。例えば願い事を叶えてくれるように頼むのは神社、という程度で。

そのシステムの上に則って、様々な生き方を選択する。それが宗教であり、システムに対して、宗教はスタイルなのだ、という風に捉えている。スタイルは強固に信じられれば幸せだが、時と共に移り変わり、必ずしも一義的ではない。一方神様の世界は、システムなので、変えようがなくそうなってしまう。抗えないし、もうひとつ神様には大変大きな特徴があると思う今日この頃。左翼でもないけどね

2017年3月8日

四番ファイヤーガール

対性理論によると、この世の中で光を超える速度のモノはない。これはもう物理学の常識であり、そこから全ての理論が始まっていると云っても過言ではない。ではなぜ、光を超える速度のモノはないのか?実はその答えは誰も知らない。そうなっている、としか現代の人間は言えないのだ。でも、それで今の世界は回っているし、科学技術はその曖昧さを残したままで進化しているのだ。
曾ての人類は、そういう科学理論を漠然と知っていても、例えば文字を発明していなかったり、観測技術を持っていなかったりして、科学として体系づけることも出来なかったし、それを技術として構築することも出来なかった。でも、そこに例えば相対性理論は確実に働いていたし、光は何よりも速い速度を保っていたのだ。そういう頃に、例えば太陽はなぜ明るいのだろうか、風はなぜ吹くのだろうか、水はなぜ冷たいのだろうか、という疑問を感じる者はきっと居たはずだ。
そんな時、大気圧の関係で、なんて科学を持ち出して風が吹くことを説明することと、風神さまが大きな袋を持ってだな、という風に表現することの本質は変わらない。どちらも、目に見えないモノ、なぜそうなるか分からないモノに、解答を紡ぎ出す作業だ。その時考えられる英知の発露として、科学もあり、風神さまもある。古なら擬人化で済んだモノも、今は科学が蔓延している故に、判らないことは判らないとしか言えなくなったのは、果たしてより進んだ世界と言えるだろうか?

とにかく、分からないモノに名札を着ける、ということが、例えば天災などと密接に結びついて、解決を探るための理論としての、神様の姿、というのは立派な人類の知恵に違いない。宗教が人を救う、あるいは人生の理の理論であるならば、科学ともそう変わらず、信じるに値するモノだと言える。科学が賄えない部分を、宗教が補えば、両者は共存できるはずであり、実際現代はそれを実現している。もちろん科学の中には、エコノミック・サイエンスも含まれている今日この頃。9mm Parabellum Bullet最高!

2017年3月7日

ふるさと射精

の世界的な宗教全てを勉強した訳ではないけれど、おそらく仏陀が見た世界も、キリストが見た世界も、預言者ムハンマドに囁いた世界も同じモノだと思う。現実には見えない別の宇宙がある、ということが宗教観を導くのだとしたら、それは必ずしも異次元のものでなくても良い。捉え方の違いだ。そう考えると、やはり、身体の中の生理的器官として、肉体的な何かのスイッチが入ると生態的にな知覚に作用して見える宇宙がある気がする。わかりやすくいえば、夢を見ている時に感じる、現実感はないけれど実際にこの目で見ているような認識。
そこまで考えると結局、人間である限り備わっているひとつの場所から全ての宗教は始まっていると云っても過言ではないかも知れない。だからといって宗教対立を否定はしないけれど、そもそも、特別なモノでもないという認識の方がずっと受け入れやすいのではないか。そう簡単なものではないけれど、おしなべて人の全てに備わっていて、もっと多くの人がそこに触れる方法を試してみれば、もっと多くの宗教家が生まれてもおかしくない。
あくまでそれは私の推論でしかないけれど、つまりは宗教で語られる教義という名の道徳は、人の捉え方から逸脱しないのだな、と思うのだ。人が考えつく以上に宗教は何も語らない、ということ。結局、人に帰依することに過ぎないのだ、と。すると、ストーンズのキースでも好いし、大川某でも好いし、こういう話をする私でも好いではないか。そこでポッと出てくるのが大日如来である。

この世界に遍く存在するモノ、世界そのもの、という考え方は、私の中で、この世の理と繋がる。それは人間関係とかいう曖昧なものも全て含んだ、科学とか理論的なモノ。相対性理論はこの世の物理を全て言い表しているようで、そうでもない。その佇まいは言い換えれば、宗教に似ている。科学は検証できることで、人々は信じているけれど、万能ではない。科学を信じることと、宗教に帰依することは、ほぼ同じ事だと思う今日この頃。一袋に十個しか入っていないのが玉に瑕

2017年3月6日

セックス入信

言宗の宗教観の中心にあるのが、大日如来として顕現されている仏。これは、遍くこの世に存在する仏様、という風な言い方をされるが、平たく言えばこの世の中そのもの。それを仏様の格好で偶像化したのが、大日如来の姿、というわけ。阿字観はこの大日如来を想起することで、この世界そのものと一体化し、ひいてはこの世の理に触れる、というのを目的としている。幽体離脱とか、神秘体験はその副産物。
阿字観をはじめ、瞑想は必ず呼吸法を伴う。腹式呼吸で長く吐き、長く吸う、を繰り返す。実際やってみると判るが、これは案外苦しい。普段意識せずにしている呼吸とはまるで違う。終わると大きく深呼吸するほど、軽く死にそうな感覚になる。まさしくこの臨死体験、死に近づく行為が、瞑想なのだ。悟りを開く、解脱という境地は、この臨死体験の時に見る瞬間の映像、体験がもたらす、というかそれがそう。
前に云ったように、極楽浄土は死んでからしか行けない。ただ修行でそこを垣間見る、というのはそういうこと。死にそうな瞬間に、見える風景を実際に見ると誰でも、やはりあるんだ、と信じてしまう。そのひとつの確信が、輪廻からの解脱から始まる仏教の教義をひとまとまりに繋げるのだ。

ただ、この臨死体験、なのかどうか正確ではないけれど、苦しい呼吸法を行うことで、身体が反応する生理現象、というのが一般的な認識だ。ある種の脳内麻薬のようなモノで、幻覚が見えたり、幻聴が聞こえたりする。それもきっと、人間がまだ知らない生理現象、遺伝子に綿々と刻まれた身体の中の記憶なのだろうという気がする。そう考えると、誰でも極限まで我慢すれば、悟りを開けるような気がする。ただそれは相当苦しい。死を覚悟するほどの我慢が必要だ。と、こういう言い方をすると、なんとなく世間一般にある修行のイメージにかなり近づく気がする今日この頃。セミは死ぬもんね

2017年3月5日

豊かな日曜日

教を道徳と同列に考えるなら、例えばピプルレ騒動の彼女を救うのが、必ずしも宗教である必要はない。この場合教団、というべきか。例えば人権団体でも、暴力団でも、半グレ集団でも、政党でも、地域のコミュニティーでも、学校でも、恋人や、なんなら私でも()何でも良かったはずだ。自らの道徳を持って、それを信じることで、未来が待っていると信じ込ませられる集団、あるいは人物ならそれでも充分信仰する価値はあるはずだ。縋ってきた者に、それが正しいことだ、と信じさせるために頼られた者は行動すれば良い。信じようと信じる側が努力してもいい。
ストーンズを教祖としてロックを信じてオレは生きていくぜ、でも全然かまわない。要は、その時信じられるものに縋るしかない、ということと、一方で哀しみや苦しみは相変わらずそこにある、ということ。このことだけを知っているのと知らないのでは、随分違う。宗教も構図は変わらない。信じるために田畑売って全財産をつぎ込むのも、ストーンズのCDを全部買い集めて毎日聴くのも、同じ事なのだ。
もっと言うならば、信じていられるモノならば、自分で作り出してもいい。自分だけのオンリー・ワン宗教で誰にも迷惑は掛けないなら、なんだってかまわないのだ。そこまで考えると、結局、誰か信じられる人がいるのは幸せ、という結論が見えてくる。例えば、宗教だったら、教祖。私の場合、どこの檀家でもないし、入信も何もしてないけれど、単純に興味、という点でやはり地元お大師さんのご威光、なんていうことをよく口にする。

そして自分なりの観点で、自分がわかりやすい宗教観を形作ったことで、いろいろと物の見方が変わってきた。そこでもう少し突っ込んで、今度は神様の話をしようと思う。ただし、注意しなければいけないのは、いわゆる神道という形の宗教とはまた違う、神様の話、わかりやすく言えば、皇室に繋がる古事記や日本書紀に登場する神様の話。かといって日本会議のようなモノともちょっと違う今日この頃。決して悪いことではありません

2017年3月4日

残精感

教を手始めに宗教観を身につけた私だけど、他の宗教も似たようなものだろう、と思っている。そのことは後で説明するとして、だから共通項として、この世で生きることは苦しみに晒されることなのだ、ということはどうやら間違いないようだ。そこで開き直れれば、宗教なんていらない。もっと言えば、更にもっと苦しみを、来世ももっと酷い苦しみを、なんていう人が現れれば、宗教はその時終わる。少なくとも仏教は。末法の時代だね。なるほど末法の時代とは、マゾヒズムの蔓延した時代だから、現代と云っても過言ではないな。
それはさておき、例のピプルレ騒動に話を戻してみよう。彼女はきっと、気づいたのだ、この世は苦しみに満ちあふれている、と。それは今まで教義の中の現実味の無い話だったけれど、実際社会に出て、自分の心と現実の齟齬に気づいてしまった。それを苦しいと感じる自分に気づいたのだ。だから解決方法を探った。彼女の場合、そこにまず宗教があった。信じれば救われると説く宗教があった。そこに逃げ込んだ。
かの教団がどういう教義を説いているのかは判らないけど、私の宗教観に照らし合わせるなら、苦しいことは変わらない。それこそ、オウムのように苦しみから解かれる世界を自分で構築する以外に、苦しみから逃れることは出来ない。苦しみはそこにあり続ける。彼女が選んだ道はそれを、宗教というサングラスで見えなくしただけ。彼女が本当に救われるのは、これから修行し、教義が説く正しい(とされる)道を歩んで後に、死んでから現世に戻ることなく極楽浄土に留まって初めて、救われたと実感できるのだ。

まぁ、宗教家がその通りに彼女に言ったかどうかは判らない。さっき云ったように、宗教が説くのが道徳ならば、様々な正義による道徳が存在するのだから、必ずしもそれが今の日本の社会の規範に沿うかどうかは判らない。しかし一般的に社会と仲良くしていこうと思うなら、互いに話し合って落とし所を探ることを説くのも、これまた宗教の役割ではないか。現代カルトと呼ばれる宗教が、忘れているのがその社会との軋轢を生まないようにするのも正しい道だ、という認識だと思う今日この頃。小林製薬辺りに

2017年3月3日

快刀乱麻を断つ

いでだから極楽浄土について話してみよう。極楽浄土はあの世にある。つまり、死んでからしか辿り着けない。これは仏教の基本原理。そしてそれと並んで重要な仏教の原理は、人の苦しみは輪廻からもたらされる、ということ。輪廻とはこの世に生き返ること。つまり、この世は苦しみに満ちあふれていて、死んでもそこに舞い戻ってしまう、これ以上の苦難はないよ、というのが仏教の根本的な考え方。
極楽浄土は、生まれ変わることなく留まる場所。つまり、苦しみから開放された場所。ココへは死んでからしか行けない。それはいくら修行を積んだ聖人でも、それこそお大師さんでも、生きているウチはたどり着けない。死んでからしか絶対に行けない。翻って、現世は苦しみしかない場所。そこをサバイバルしていけば、極楽浄土にたどり着く。このカラクリを、仏陀さんは気がつき、それが悟りとなったワケ。
正確には悟りの瞬間、仏陀は極楽浄土を垣間見た。実は、極楽浄土を覗き見することは可能なのだ。それは後で詳しく話すとして、悟りを開くというのはその極楽浄土をチラリと覗き見したことであり、そこから始まる。実際にこの目で見たんだから、確実にある、と信じられる。そこに存在している限り、そこに行ける者が居ると確信できる。その確信が、いわゆる悟りなのだ。阿字観をはじめとする瞑想や、苦行はまさしく、その極楽浄土を覗き見するための方法なのだ。

さてココに宗教に対する一般的なイメージとの乖離が生まれる。え?宗教って信じれば救われるんじゃないの?それは嘘じゃないけど、正確じゃない。救われるのは死んでから。二度とこの世界で味わう苦しみを体験しなくて済むために、修行する。何の因果か、この現世に生まれてしまったのは前世の業ゆえ、それを払うために、修行しましょう。では果たして修行とは何?それはつまり信じることだと結論づけられる今日この頃。精子洩れも断つ

2017年3月2日

妖言惑衆

んな宗教の本を読んでいて、私が読むような本だから本格的ではなくせいぜいちくま学術文庫が関の山、後は新書クラスの分かりやすいものばかり。そういうものばかり読んだせいか、ある日あることに気がついた。仏教は、時代によって色んな世代に分かれる事を学ぶと、その折々に必ず開祖や中興の祖、と呼ばれる宗教家に出会う。密教では空海さん、浄土宗では親鸞さん、そもそも、仏教と言えば仏陀、みたいにね。
真言密教が革新的だったのは、それまでの仏教は修行した者だけが救われる、という小乗仏教から、そんなみみっちいはずはなく宗教が衆生を救う、という大乗仏教に移行したこと。そして密教は、その為の呪術や加持祈祷などで、困難を切り開いてみせた。最終的に、仏教はシンプルさを求め、ひたすら無に近づくための禅や、お題目さえ唱えていれば救われると解いた浄土真宗にまで至る。
いずれにしろ、庶民とのインターフェースとして仏教の布教家、あえていうと教祖、そういう人に出会う。そう、突き詰めると人間に出会うのだ。宗教が説くのは生き方であり、修行はその為の戒めである。修行をし、教義に則った真っ当な生き方を死ぬまで続けたら、ご褒美として極楽浄土が待っている。そこへ導くのが、いわゆる教祖、開祖、なのだと気がついた。これは自分でも結構エポックメイキングな出来事だった。

つまり、宗教は辿っていけば、いつか人に出会うのだ。その人が言うことを信じそれこそが宗教なのだ、と私は悟ったワケね()。それはもっとありきたりな構図で云えば、先生と生徒の関係であり、教える正しい道というのはつまりは道徳のようなものだな、と。先生のいうことを聞いてルールを守って正しく生きれば、飴玉をくれる、というのと同じように、仏教が語るにはそこに極楽浄土が待っている。これが究極のご褒美で、そこに辿り着くための近道を説くのが仏教なのだと理解した今日この頃。好感は抱いたけど(笑)

2017年3月1日

堀北真希、山本家に出家

人空海、密教の祖にして、伝説の人。でも、結局人間なんだよな。そういう人間の部分が、必ずある。悟りきっても逃れられない生理的な部分、身体のつくり、そういう感じがどうしても残ってしまう。それは、仏教的に云うなら、菩薩のイメージと重なる。十億六千万年後だかに仏教の力が潰える末法の世が来ると、如来がやってきて再びこの世界を照らす。それまで世の中を導くのが、菩薩。昔やっていたNHKの仏教特集によると如来のピンチヒッターが菩薩。
菩薩はあと一歩で悟りを開く、その手前で現世に残って衆生を救済する如来の姿らしい。つまり、天界人と現世人と、分けるなら未だギリギリ現世の人、いわゆる人間側。悟ると如来になって、天界に行く。そういうイメージが、お大師さんにはなぜか残っていて、だから、阿字観セミナーの時にお坊さんに、空海さんって悟ったんですか?なんて馬鹿なことを訊いてしまった。その頃悟った人は、少なくとも仏教では仏陀だけだと思っていたから。
それにお大師さんは未だ入滅しても現世に留まり、高野山の奥の院で修行を続けている、というのが真言宗では信じられている。だから、如来、菩薩のイメージからすると、衆生を救う菩薩、という立場が一番しっくりくる。つまりは、お大師さんといえども、未だ人間界の軛(くびき)の中にいる。それでも、人を救うことが出来る。そうすることが、お大師さんの使命、そういうことを自然と信じられるわけ。

あくまでもこれは、私のイメージであって、いろいろ勉強したと言っても実際難しい話ばかりなので、なんとか自分なりのイメージを構築しよう、とした結果の産物。仏教を本当に研究している人からすれば、全く間違ったイメージであろう事は容易に想像できる。また、そういうことが実際、仏教なんかではオウム真理教のような異端を呼ぶことにもなるので危険ではあるんだけど、私は底が浅いので世界を転覆しようとは微塵も思わない今日この頃。あの筋肉質の身体で真希ちゃんを駅弁

2017年2月28日

ウメモード・シカリオキ

晩の瞑想と平行して、宗教のことを書いた本をいろいろ読むようになりました。入り口は、そもそもの密教です。空海さんの伝記、真言密教の解説、説話、等々。余談ですけど、今私の中に再び空海さんブームが起こっていて、まだ読み足りない気がしていろいろ集めています。密教に限らず、一応仏教を軸に、チベットから親鸞さん辺りまで、歴史を下る感じで様々なものへ興味は尽きない。
余談ですが、今私が住んでいるところは、空海さんとゆかりの深い街で、道を歩けば必ずお遍路さんか自衛隊員に会う、という土地柄です。それも何かの縁なのか、生まれたのは別の場所なので、結局ココに辿り着いたのか、なんとなく空海さんの開いた日本の真言密教が、自分の中での仏教のベーシックな部分を形作っているのは否めません。個人的に興味のある人物だし、年初あの海老蔵さんも愛して止まない、という番組をやっていたし。
ただ、空海さん、私は常日頃お大師さんと呼んでいますが、伝記なんかを読んでいる最中に、不図我に返って想像することがあります。お大師さんは、四国の山間に入って修験道の山岳修行に精を出した、ということが知られていて、瞑想中に槍が飛んできたとか、日輪が身体に入ったとか、一日千回お経を唱えたとか、伝説には事欠きません。でもね、と私は考える訳です。

アアお腹が痛い!とか云ってお大師さんも、その辺の道ばたとか、木の根っ子とかにしゃがんで用を足したんだろうな、なんてことを想像してしまうのです。当然、お大師さんだって人間だから、排泄欲求はあるでしょうし、生理として逃れられない。で、なぜかその姿を、想像してしまうのです。それが私の中の、人間観というか、上手く言えないのですけど、どうしても逃れられない下世話な部分を持っているのが人間、というちょっと厭世的な彩りを持つ感覚に繋がっています。それはかのストーンズのキース・リチャーズが云っているように、人間誰でも一皮剥けばドクロ、という感覚に近い今日この頃。カリスマの弊害

2017年2月27日

ビブリア・ビブラ峠

初に言ったように、宗教というものについて、漠然としたイメージすら持たず、ただ作法としての仏教をなぞらえてひたすら八十八カ所を回る旅は、そのうちに私の中に宗教、この場合仏教って一体何だろう、そもそも、いろいろ宗派があること自体なんだか意味判らないし、そもそもお経って何を言っているんだろう、なんていうことをいろいろ考える訳です。しかも、お遍路の最終目的地は、四国ではなく、もうひとつ結願のための聖地がある。それが和歌山の高野山なワケです。
もちろん私はそこまで行きました。更に一泊して、高野山で行われる阿字観という瞑想修行のセミナーも受けてきました。そこで初めて、ちゃんとお坊さんと向き合って話をしました。今思えば随分失礼なことを訊いたな、と恥ずかしくなるんですけど、その時漠然とあった些末な謎をいろいろ尋ねてみたりしました。
阿字観というのは、密教修行の根本となる瞑想法で、それによる神秘体験、というのがあるとかないとか。セミナーの参加者の中ではそれを求めていた方も居たし、不思議なものをその場で見た人もいたし。で、私はというと、云われるまま遣っているつもりでも、なんというか猜疑心が邪魔をする。ちゃんとやれているかどうかの方が気になる。当然なんにも神秘体験なんてない。いっそう不安になる。その後、帰ってきてから一年ほど毎晩阿字観をやってみましたが、それ以上何もなく、アア私はそういう輩なんだ、と悟って終わりました()。それもまた、真理。

神秘体験というのは、ちょうどその時期私の師匠、山川健一氏もヘミシンクで幽体離脱、とか熱中していたので、本店の方で一度話しましたけど、女風呂を覗きに幽体離脱できたらいいな、と、そういう不純な動機でやっているのだから、まぁ、何も起こらないのは当然です。しかし、自分には何も起こらない、と突き放したことが、逆に私に別の結論をもたらしたので、別に悪い結論ではなかったと思う今日この頃。サッカー関係?

2017年2月26日

心の投げキッス

いう訳で、全くエロとは関係はありませんが、アダルト設定という世間との間に一枚壁のあるブログだからこそ言える話をこれからしばらくしようと思います。トランプ大統領の話以来ですが、出来ればお付き合いを。というのも、まぁ、昨日までの前振りにでもう判ると思いますが、私の宗教観、みたいなものをちょっと披露しようかな、と。宗教観がそのまま、ある種の信仰になっているようなところもありますが、そう深く考えずに話のネタに。
でさっそく始めますが、私にとっては、兇状持ちになるまで、宗教は遠い世界の話、訳の分からない話でした。つまりほぼ四十年間、宗教とは無縁の人生を送ってきました。兇状持ちになった時に初めて、宗教への興味が自然と私の中に湧いてきたわけです。それは、今までやってきた人生の結論がこれか、と思った時に、これから自分は真人間になるために軌道修正しなくてはいけない、しかもかなり根本から。そういう時の指針のひとつに、宗教が漠然と浮かんだのです。
だからという訳ではないですが、兇状持ちになって後、晴れて自由の身なって直ぐに、四国八十八カ所お遍路の旅に出ました。宗教への興味は漠然としたままで、どちらかというと、水曜どうでしょうの影響で始めた、というのが正直なところ。その頃はまだ、人生が終わったような寂寥感の方が強く、人生立て直しという意欲よりはずっと殺伐としていて、半分自棄になってもう嫌いなこと、イヤなことは何にもやんない、好きなことだけやる、という意識の方が強かった。

お遍路と言っても車の旅だし、一応作法とかは道具を買ったところで教えてもらって、それをこなしながらのスタンプラリーみたいな旅でした。何を求めていた訳でもないし、ただ、どうでしょうのルートをトレースする以外に何もない一人旅。実際お遍路というのは淡々と札所を回る。これが実によく出来ているシステムで、何が起こるか、ってやっぱり自分を見つめ直す、自分が露わになる旅なんだと思い知る今日この頃。今日は頭痛がする

2017年2月25日

希望を紡ぐクズ

たような経験を積んだ()、私からすれば、彼女はそこに宗教があって良かったね、とそう思いました。以前からの信仰があったようで、彼女として逃げ場所があったからこその方向転換、とも云えると思います。普通はね、何にもないですよ。何もないから、自分で結論を導き出そうと、考え、悩み、あちこち身体をぶつけながらそれでも、誰かの手を借りてもどうしようもないことだから自分でなんとかしようとする。それがごくごく一般的な人生の蹉跌ですよ。
骨髄ドナーの時も思ったんですけど、なんのトラブルもなく、順調に学校を出て、就職し、結婚して子供を作り、育て老いて死ぬ。一般的にはそれがごく当たり障りのない幸福な人生なんでしょうけれど、自分がドナーになった時に、誰かに希望を与える役割を得る、という経験は、そこに身体のリスクがあったとしても、その当たり障りのない幸福な人生以上に意義のある人生だ、と思いました。自分の幸福のみに邁進した人生と、他人の幸福を考えた人生。
そういう意味で私は、政治家という人達を、世間で言う程批難する気にはなれません。仕事は評価しますが、一定の尊敬の念を持つことは大切なことだと思います。同じように自衛官や、官僚、なんなら検察官や警察も含めて、いわゆる公共の仕事をしている人達を、私たちはもっと尊敬するべきです。まぁ、最も尊敬が感じられないのは、マスコミや国会の中なんですけど。

それと同様に、助け船を持たないで悩み続けて私のように転落する人生と、転落する手前で用意されたように受け皿に落ち着く人生と。どっちが好いとは言いませんけど、いずれにしろ、人は悩むものなんですよ。でも、少なくとも評価は手前で踏みとどまる方がずっと称揚される。転落してしまうと、途端にクズだと言われる。転落して悟る真理だってあるのに、と思いつつ、アアそれもまた射精産業が虐げられている理論と繋がっていると思われる今日この頃。まぁ、好色妻降臨ですけど(笑)

2017年2月24日

全員、片思い

家だなんだと騒がれましたけど、結局両者の間の共通の言語ってお金しかなかったので、突然の方向転換に関わるリスクをどちらが補填するか、という話で解決しそうです。事務所側、教団側、どちらの主張も同じ地平に立っていないので、信じるか信じないかはあなた次第です()、としか言えません。事実だけが積み上がっていくので、つまりは、彼女が方向転換した、という現実だけが残る訳です。
今回宗教が絡んでいる、というのがあって、まぁ、芸能界はかつての統一教会、世間的にはオウムの一連の事件、政治的には日本会議のことがあるので、目立って論評は避けているようですし、お誂え向きにトランプさんや、暗殺事件とかが優先して直ぐにかき消えてくれましたけど。ワイドショーも事件としてはお金の話をするしかなかったので、今ひとつインパクトに欠けていた感じでしょうか。まぁ、人気の点からいっても、微妙な位置の女優さんでしたし()
ただ私的には、彼女のなかなか更新しないブログをブックマークしていたり、もちろん「まれ」も見ていましたよ、大泉洋さんが出ていましたからね。話は面白くなかったですけど、その中で彼女は、映画監督が好んで使いたがる女優さんになるんだろうな、とそんな気がしていて、だからファンとかそういう視点ではなく注目していました。顔は好みじゃないし胸は小さいし、アイドルとしてではなく女優さんとして、です。

そして今回のように、突然の方向転換。実は私も同じ様な経験を何度かやらかしています、出家じゃないですけど。周囲の者からトラブルメーカー的な目を向けられ続けていて、学校を途中で辞めたことから始まって、仕事も専務と喧嘩して辞めたり、女性がらみで仕事ほっぽっちゃったり。トラブルメーカーと言うより、無責任野郎でした。まぁ、その結果が兇状持ちか、と思えば納得できる今日この頃。NHKは強気(笑)

2017年2月23日

ピプルレ騒動

ダルト冬の時代の幕を開けたのは、昨年のAV強要問題辺りからだと思うのですが、それがついに表の芸能界まで波及、というのは全くリンヂ監督の受け売りです。私は彼女の出家騒動を、ピプルレ騒動、と勝手に呼んでいるのですが、その語源はある一定以上の年齢の人しか分からんでしょうね()。昔、ピプルレププレルアー、なんて謳っていた人が同じ様なことで韓国で結婚式を挙げたんですよ。
彼女が出家しようとした理由が取りざたされる中で、やれ人を食うヤツが主人公の映画には出たくなかっただの、みんなの前で水着になるのが恥ずかしかった、男どものオナペットになるのはイヤだった、というような話が出てきました。それに対して、テレビの論調は、気持ちは分かるが仕事は最後までやってから、という結論に終始していて、それはまんま、借金返すまでAVの仕事は辞めさせない、という強要問題と同じ論法だな、と。
事務所側からすれば、自分達が抱えている俳優さん達はみんな、より多くの人に注目されたいと願っているだろうし、それで余裕のある生活が出来れば好いだろうし、と思っていたことでしょう。だから水着になったり、人気マンガが原作の映画に出れば、それは彼女の欲求を満たしつつ事務所も儲かる、という風に考えていたはずです。だから、そうではない考えを突きつけられると、途端に困惑する訳です。

AV女優さんの時も同じ事で、事務所側は誠心誠意、褒めて煽てて仕事を与えて高額ギャラも払って、と至れり尽くせりしていたつもりだったんでしょう。でも、現実はどこかにズレがあった。事務所も把握しきれない何かがあったのは事実でしょうし、女優さんの方も何か思い違いがあったはずです。こういう問題はどちらがどう、という風に肩入れは出来ないものです。そういうことをネット上でも言っていたのはリンヂ監督と伊集院さんだけだった今日この頃。事務所と教団が妥協