ご注意

このサイトはアダルト・サイトです。詳しくはわかりませんが、ご覧の国の律に従って閲覧してください。とりあえず、子供は十年いよ、一昨日来やがれ(笑)。
そして、大変僭越ながら、当ブログは特定秘密保護法案に断固として対します。だって、真っ先にこういうブログがかれそうだから。
そして、2013年末に亡くなられた大瀧詠一さんに心からの悼の意を表します。どうか安らかに。夢は消え、歌は残る。
なお、このブログは定期更新で、且つ、ある程度まとめて原稿を書いて、小出しに更新する、というスタイルでおりますので、多少最新情報から外れることもありますが、その点は気長にお付き合いください。
ですが、何かと不便なのでまとまりのはじめの記事に「直線ち」というラベルを付けるようにしましたので、そこからお読み頂けると、スムーズに楽しめるのでは無いかと思っております。

2017年3月10日

神様の統一理論

の理を神様という形で擬人化して現したのは、人類の知恵だと思う。その時、全く何か違う存在として突き放さず、自分と同じ姿形をした人に当てはめたことが、その後の信仰も含めて、ひじょうに意味がある気がする。お遍路の締めとして、高野山に行った後、中部地方から関東辺りまでのんびりとクルマで旅をしたのだけど、その時思ったのが、日本には、どんなところにも神様が居る、ということだ。
それこそ、その辺の石ころでも、老木でも何でも、神様として祀っている。それぞれに謂われがあり、人間と関わっていたのだろうと思うけれど、それは全て、人にとって良いことばかりではなかったはず。多くが災害であり、困難の象徴であったはずだ。つまり古の日本人の感覚では、神様は良いこともするが、悪いこともする。時々機嫌も悪くするから、お供えとかお祓いとか祝詞とか神楽とか、機嫌を取らなくてはいけない。機嫌を損ねると大変な災いが襲ってくる。
そういう風に、ひじょうに神様は人間的なのだ。全く逆説的な言い方だが、全知全能の神は存在しない。まさしく物理学や、天文学の理論の数だけ、様々な顔を持った神様が居て、その多くが人間の意のままにはならない。だから、上手く付き合っていかなくてはいけないのだ。説き伏せるでもなく、もちろん盲目的に付き従うのでもなく、仲良くやっていくのだ。そこが帰依する宗教とは違う感覚。

改めていうが、神道という宗教はまた別の話。あくまでも民間信仰、民族的な神話の意味での神様。それは更に時代が下ると、日本人が寄って立つ時の流れ、歴史、のようなモノまで神様に当てはめて、それは現代まで脈々と受け継がれている。まさしく、システムそのものに違いない。私がある種盲目的に天皇制を固持したがるのは、そのシステムの権限である、という考え方が大きな要因を占めている。システムはなかなか変えられないでしょ、と思う今日この頃。探求は何時までも続く